村にあった講 多摩湖の歴史p277~280
水没前に村民達の間で盛んにおこなわれていた講は、農事に関してのものが多いようだ。「雹(ひょう)除けの榛名講(はんなこう)のように一村全員の加入が半ば義務のような講もあった」(内堀小十郎)。調査に当り「頼母子講」(たのもしこう)など金融に関する講については、一度も話にのぼらず聞くことが出来なかった。
講は大部分は村の有志の間でおこなわれていたが、「戸隠講」(とがくしこう)のように、清水村上宅部と狭山村の林・杉本両部落の二村の有志の間で、一つの講を作るという例もあり、また荒ケ谷戸などでは戸数の少ないこともあってか、「念仏講は表の蔵敷の講中に属している」(宮崎誓)という例もあったが、多くは同じ部落内で講が作られていたようである。
女衆達の唯一の楽しみとされていた一月一四日の「おしら講」については、年中行事で詳しく書かれているので、ここでははぶいた。
御岳講
武州御岳神社の信仰で、毎年四月に代参を立てた。また春・秋の農作物の収獲時には、神社の御師が村を訪れて回り、各戸に「大口真神」のお札を配り御師への礼には収穫した作物を差上げた。上宅部では原仁三郎さんの家が御師の宿であった。
大口真神のお札は家の入り口(とんぼ口)に貼り、火災や盗難除とした。
代参は籤(くじ)で当った者二人が御岳神社まで歩いていき、神社の参拝を済ますと御師の家に泊った。翌朝に村に帰る。そしてお日待ちの席で「大口真神」のお札を配り、来年の代参の者を決めた。大正一〇年(酉年)の太太神楽の時には、村の講中全員が御岳神社に参拝をした(上宅部)。
現在は講という形では存在していない。
榛名講
貯水池が出来る前のこの附近一帯は、雹害の多い地域であった。このため電除けの信仰がさかんであった。
群馬県榛名神社へは、毎年春三月から四月にかけて代参の者がいき、雹除けの祈願をした。代参は前年の籤で当った人が四・五人でいく。費用は村持ちで、往復の旅費を差引いて若干残る程の金額であった。所沢・川越・高崎と汽車を乗り継いで行った。この時「ゆで卵」は形が雹に似ているので持参するのを禁じた。
榛名神社では電除けの祈願をしてもらい、お札をもらうと、帰りは伊香保等へ一~二泊して、遊山を楽しみ帰村した。ある年の代参の一人が都合で宿に泊らず、折から降り出した雪の中の峠を越えようとして凍傷にかかって動けなくなり、後からいった人に助けられ一命は取り留めたが、足首を切断してしまったという気の毒な話もある。
代参の者が帰ると「雹まつり」のお日待ちがおこなわれた。宿となった家では、「女が入ると雹が降る」と言い伝えられていて、女性は隣家などにいってしまい、男だけのお日待ちである。支度からあと片附けまで、すべて男の手でおこなわれる。
村人が各自持ちよった米五合(七五〇グラム)で小豆めしを炊き、これを五杯から七杯も食べる人もいた。お酒も出たり賑やかなお日待ちの場であった。この席では来年の代参を籤で決めたり、道普請のことを話し合うなど、部落の総会をもかねあわせた。そしてお札は講中の者に配り、神棚に上げたり、竹に挾んで上に杉の葉をのせて畠にさして電除けを祈った。
この附近の雹による被害は実に大きく、一九一二(明治四五)年の降雹は、径ニセンチくらいの雹が一五センチも積もり、五日間もとけなかったという。この様な雹災で貧困に陥いる家が少くなかった。そして「この時の雹害の手入れ資金として村では共同で勧業銀行から資金の融資を受けたが、その返済には昭和一〇年頃までかかった家もあった」(内堀英一)。しかし、貯水池が出来ると気象条件が変ったのか、雹の降ることも減って榛名講も終りになった。
戸隠講
長野県の戸隠神社の信仰である戸隠講は、清水村上宅部と狭山村林・杉本の有志の間で作られた講である。戸隠講は原六郎さんの先々代の頃、東久留米にあった戸隠講に参加していたが、戸隠神社の託宣(たくせん)が良く当るので、信者が次第に増えて来たのをみて、「御師から上宅部に講を一つ作ってくれ」といわれて出来たものだとのことである。講元は原六郎さんのお宅で、毎年一月に「おみくじ」が来る。四月に御師が来て宿との家に講中が集まり、御師が持参した祭神の表具を祭り、五穀豊饒の祈願をしてもらう。後はうどんを出してお日待ちをやった。
戸隠講は現在も続けられている。清水には移転した講中の他にも講中があり、芋窪でも盛大におこなわれている。
大山講
大山阿夫利神社の講は、上宅部にあったと聞くが、他の村ではなかったようである。代参の人が大山参りの若者達を連れて阿夫利神社へいったこともあるということだが、その詳細は解らない。
念仏講
大きな数珠を繰り回して、百万遍の念仏を唱えるという念仏講は、多くは村の老婆達の間でおこなわれた。蔵敷の念仏講中に参加していた荒ケ谷戸を除いては、ほとんど全ての部落に講があった様である。
念仏講は各部落の堂でおこなわれ、故人の冥福や流行病の退散、お通夜の回向(えこう)などをした。伏鉦を叩く人を中心に輪になって座り、大きな数珠を繰り回して、数珠のなかの大きな珠が手元に来た時は珠を捧げて一礼する。一順すると千二百遍拝んだことになる。
終ると持ち寄った米を炊いてお日待ちをやった。念仏講のお日待ちは老婆達のリクリェーションの場でもあった。
悪疫流行の際は村に病気がはやらないことを願って村の境にしめ縄を張り、内堀堂の前で老若男女を問わず百万遍の念仏を唱えたこともある。
現在奈良橋の庚申墓地や、清水の三光院に念仏講中の石碑があり、往時の念仏講の隆盛と物語っている。今は講はない。
伊勢太太講(いせだいだいこう)
伊勢参りが目的の講で、伊勢神宮へ出かける時に名前がつけられたということである。清水村上宅部だけにあったようで、他の村では聞かない。
個々に積み立金をして旅費が出来ると伊勢参りに出かけた。積み立ては長期間を費いやしたそうである。
汽車で出かけてその日は興津(おきつ)に泊り、久能山(くのうざん)をへて静岡・名古屋・伊勢に着く、宇仁旅館から番頭が出迎えてくれたという。一八九九(明治三三)年と一九二二(大正11)年の二回参拝したとのことである。
稲荷講
農業の神を祭る稲荷信仰は、講の形態ではなくて、屋敷神を祭る本家とその一族による信仰という形が多く見られる。二月の初午の日に屋敷稲荷の前に集い、五穀豊饒を祈願した。
社には「正一位稲荷大明神」と記した赤い布の幟を立て、赤飯・目刺などを持ち寄り供えた。社のそばで焚火をして暖を取りながら、目刺を焼いて喰べるという風習は、今も受け継がれている。
お十夜
所沢市の山口観音では、一〇月一八日の晩から一九日にかけてのお十夜に「談義」がおこなわれる。お十夜までの一年聞に亡くなった人の戒名を読み上げ、念仏を諏諦する行事である。
僧侶の法話の時に、「双盤鉦」を一定のリズムで叩き、念仏を唱える「かねはり」がおこなわれる。「内堀の若い衆も内堀堂で仕上げた腕自慢がお十夜のかねはりに出かけて他の人と腕を競った」(内堀専司)という。また「老人達は風呂敷を持参して"おこもり"をしたとのことである」(宮崎誓)。そして「お十夜で書いてもらった戒名の軸はお盆の時に盆棚に飾った」(原ろく)。
繭玉(まゆだま)
まいだま・おしらさま・おしら講などともいう。蚕の神を祀り、繭の豊作を祈る行事で、一月一四日におこなわれた(図Ⅲー20)。くぬぎやかしの枝を切り、その先に繭をあらわす米粉のだんごをつけて、部屋の中に飾る。また十六玉といって、桑の木の切り株に、一六個のだんごをさして飾る家もあった。
この日はおしら講といわれる女性のためのお日待があり、まわり持ちの当番の家に集って飲食やおしゃべりを楽しんだ。その時「ほっぽき」というかけごと遊びがおこなわれた。それは参加者の数だけ麻ひもを用意し、ガての一本に穴あき銭をつける。親になった者は麻ひも全.部をにぎり参加者は決められた額のお金(ごく少額)を出して、ひもの一本をひく。穴あき銭の付いているひもをひいた人が、全部のかけ金を受けとり、次の親になる。